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[番外編] 信長の野望 嵐世記 番外編(5)

前話、「武田家と上杉家が対峙せず、もっと早く上洛を考えていたなら?」



の後編・・・


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前話では
「上洛し天下を治めることが可能だったのではなかろうか?」
との仮定で甲斐武田家を主人公に、現在の山梨県から広島県あたりまで進むには陸路だけでなく水路を選ぶと良いと綴った。



移動速度で有利なだけでなく、徒歩での移動に比べ船内で休養できるので目的地にたどり着くまでの疲労も軽減できるだろう。

今回は上杉軍 ( 長尾家 ) 側から考えてみよう。
上杉謙信公に京都まで勢力を伸ばしたいという野望はあったのだろうか?
一般的に手取川の戦いと呼ばれるが、上杉謙信公は西暦1577年11月頃、加賀の手取り川付近にて織田軍と激戦となり勝利した。手取り川は現在の石川県能美郡川あたり。
さらに、翌年雪解けを待って軍を進める準備をしていたが、謙信公は出発の数日前に亡くなった。
京都まで軍を進めたかったのか、織田軍を討伐したかっただけなのか疑問である・・・



仮に、川中島で武田軍との争いに時間を費やしていけなれば軍を進めただろうか?
上杉軍は川中島で武田軍と争っていただけでなく、
[番外編] 信長の野望 嵐世記 番外編(2)
[番外編] 信長の野望 嵐世記 番外編(3)で綴ったように、関東一円の支配権を手に入れようとしていた北条家とも争っていた。
ほかにも、仏門衆と関係、具体的に言えば 上杉軍の味方につくか敵対するかもカギである。

ここからは、信長の野望のお話。
信長の野望 嵐世記では登場する個々の武将データの出自が設定されている。信仰なし、一向、旧仏、基督の4種類のうちどれかである。
たいていの武将は「信仰なし」。一向は一向宗に帰依、旧仏教に帰依、キリスト教に帰依の意味となる。

ゲーム中の上杉謙信公は旧仏に設定されている。ほかにも、毛利家の安国寺恵瓊、板部岡江雪斎などが旧仏。
一向は旧仏に対し新興勢力であり、大阪の石山御坊を拠点としていた本願寺家と下間一族、雑賀の鈴木佐大夫、鈴木重秀や徳川家に使えた渡辺守綱・・・

旧来から存在する者達と新興勢力が対立したのは我が国の戦国時代にかぎったことではない。西洋諸国でも新旧の対立を繰り返してきた。



信長の野望 嵐世記において、旧仏と一向を地域別に色分けすると上の図のようになる。

例えば、京都や武田信玄公の本拠地である甲斐は旧仏。京都へ軍を進めようと考えた場合、いずれのルートも一向の地域を回避できない。
上杉謙信公の本拠地は一向、同様に京都へ向かうには一向の地域を回避できない。

どの勢力と親交を深めるかを見極めることがゲーム攻略への近道となる。
まず、寺社衆と親交を深めるには月ごとに物資を援助する。
寺社衆との関係が良好であれば合戦の際にいっしょに戦ってもらえる、寺院を休息場所として提供してもらえる。休息や補給には荷駄隊を同行するのも良いが荷駄隊は敵に狙われ易い。
寺社衆との関係が悪化すると一揆が発生しやすい。

[検索語彙への応答] 信長の野望 嵐世記 (3)で記した、国人衆との仲を深めるのとほぼ同じ。
ただし、いくら物資援助を繰り返しても、親密さが最大にならない場合がある。例えば、旧仏との親密さが最大の場合、一向宗との交渉ができない。ゲームを進めるためには、どれかひとつだけ仲良くするのではなく、満遍なく、ほどほどに仲良くしておくのが良い

物資を援助できるのは自分が支配している国および隣接国。これから攻め入ろうとしている国のひとつ先にある国の寺社衆と交渉できない。
そのような場合は商人や水軍衆に物資を援助して、プレイヤー大名家の宣伝を依頼すると良い。

一旦、ゲームのお話から離れる。
織田信長公が比叡山を焼き払ったと伝わっている。一見、「弱いものイジメ」と誤解するヒトもいることだろう。
おそらく、僧侶は高潔である、禁欲的であるという先入観にとらわれているかもしれない。現代でも、子孫を残す僧侶の方々が多いことから察すれば誤解は解けるハズ。
信長公がキリスト教を贔屓したため、旧来からの仏教を弾圧したとの見解がある。別の考え方もある。現代風に言えば二重行政を解消したかったということだ。
信長公や謙信公が活躍した戦国時代、一向宗と呼ばれた派の僧侶たちは酒や異性との快楽を求めるにとどまらず、鉄砲などを調達し武装しはじめた。修行の場であるはずの寺社仏閣が軍事要塞と化していった。
力をつけた僧侶たちは武家になりかわって人々を支配しようとする。つまり、政治に介入するようになった。時には一揆を扇動した。
本来であれば僧侶は人を救う立場である。その地を統治する武家を支えるのが道なのでは・・・

さてさて、ゲームの話に戻ろう。
上杉謙信公でプレイするとして、近隣の寺社衆が一向宗に設置されており、関係は良くない。上杉家には武闘に秀でた家臣が多く、早い段階で討って出たくなるものだ。
まずは、国人衆や寺社衆との友好関係を築いてから出陣しても遅くは無い・・・
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[番外編] 信長の野望 嵐世記 番外編(4)

武田軍と上杉軍は幾度となく川中島の戦いで対峙した。



もしも「川中島で武田軍と上杉軍が争っていなかったなら?」
別の言い方をすれば、
「武田家と上杉家が対峙せず、もっと早く上洛を考えていたなら?」
と疑問が沸いてくる・・・

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武田信玄公と上杉謙信公は心底憎みあっていた?
この見解はビミョウ。

武田信玄公は晩年、西へ向かって進軍を始めました。京都を目指していたのでしょう。その途中、三方ヶ原の戦いの後、病で亡くなったとされてる。信玄公が亡くなり、武田軍を率いたのは四男の勝頼公。

信玄公の家督を誰が継いだのかについては幾つかの説がある。
甲陽軍鑑によれば、勝頼公の長男 ( つまり信玄公の孫 ) が真の後継者であり、信勝公が元服するまでの間、勝頼公が武田家を率いていたとも考えられる。
ただし、甲陽軍鑑の内容に矛盾があるのは否めない。

さらに、信玄公は勝頼公に
「いざという時は上杉謙信を頼りにするように。困った時には必ず助けてくれるハズだ」との旨を残したとのこと。謙信公の義理堅さを高く評価していたと理解できる。

謙信公が武田家を憎んでいるのであれば、信玄公が亡くなったのを機に、
「織田信長公と手を組み挟み撃ちにして武田家を滅ぼす」ことも可能だったハズである。
上杉家臣からもその声が挙がったようである。織田・徳川連合軍は武田軍への追撃を始めたのに対し、謙信公は「義に反する」として拒否したとされている。

さらに、たとえ敵であっても苦しんでいれば助けるという意味で「敵に塩を送る」というコトワザもあります。
これは、山間地の武田家が塩不足で困っていた際、上杉家が塩を送ったことが由来とされています・・・

なぜ武田軍と長尾軍が衝突したのか?

武田家の側に支配地域を拡大したい事情があった。武田家の本拠地は甲斐の国。現在の山梨県甲府周辺、山間地である。地域柄、石高は低い。



石高を簡単に言ってしまえば大名家の年収である。信玄公は収入を増やそうと治水などに力を注いでいた。
しかし、戦国乱世においては軍勢を率いて支配地を拡げてしまう方が手っ取り早かったのかもしれない。
武田軍の騎馬隊は戦国最強と評されていた・・・



武田軍は信濃各地の攻略に成功。やがて、北信濃の高梨家にも武田軍が迫ってきた。これを境に長尾景虎 ( 若き頃の上杉謙信公 ) が救援に向い武田軍と度々争うようになった。



高梨家は長野県中野市から須坂市を領地としていた。
謙信公の祖母は高梨家で生まれた。また、謙信公の叔母に当たる女性が高梨家へ嫁いでいるなど、長尾家と高梨家の縁が深い。

あくまでも推測だが、海に面した地域を手にいれたいと考えていたかもしれない。
武田家の本拠地は山間部ゆえに海産物の調達に苦労していた。( 現在のような冷蔵や運送の技術は無い)
とくに塩の不足は人命に関わる。
武田家、北条家、今川家の三者間は同盟が成立しており、現在の神奈川、静岡、愛知方面など太平洋側へ軍を進めることは不可能。となると、日本海に面した地域を手にいれようと企てることだろう。
北信濃から越後へ攻め入るよりも越中 ( 現在の富山 ) や越前へ進むのが良かったのだろうか?
越中では椎名家と神保家が争っていた。椎名家は上杉家側、神保家には武田家側となり代理戦争を展開していた・・・



信玄公は晩年上洛を目指した。西上作戦とも呼ばれている。
信濃をめぐる上杉軍との争いに明け暮れていたために遅くなってしまったのだろうか。

当時の状況からすれば美濃飛騨から近江を経るよりも海路を選ぶのが妥当。
かつて武田家と今川家は同盟関係にあった。今川義元公が桶狭間で討たれる前は今川家が三河と駿河を治めていた。援軍要請でもないかぎり、同盟相手の領内に自軍を進めることはトラブルのもと。
ところが、桶狭間の戦いで義元公が亡くなったのを機に、徳川家康公が今川家から独立した。家康公は岡崎城を居城とし三河を統治にとりかかった。武田家と徳川家は同盟関係ではない。三河に進軍できない理由は無い・・・

この話題の原点は信長の野望。信長の野望 嵐世紀にはミッションチャレンジが用意されている。その中の「夢幻の章」の3番目、ミッション31 「日本三景を見たくて」では武田騎馬隊を率いて陸前、丹波丹後、安芸備後を支配するのが課題。
現在の山梨県から広島県へ進むことになる。



「陸路ではなく海から」が理解できれば攻略の近道となるハズ。
ゲーム中、水軍衆と親交を深めることで船で運んでもらえる。親交を深めるにはコマメに物資を援助すればよい。さらに、水軍衆と交渉するには海に面した地域を支配していなければならない。
開始当初は今川家、北条家と同盟関係に設定されている。現実の世界で契約を結んだり破棄を繰り返す行為は信用を失う。ここはゲームと割り切って一時的に同盟を破棄し、三河を手に入れるのが近道。そして、三河から伊勢志摩へ渡るのが良いだろう・・・

ところで、信玄公亡き後、織田・徳川連合軍と武田軍が戦い、武田勝頼公と弟の仁科盛信が亡くなり武田家は滅亡した・・・と考えがちである。戦国時代、敗れた側は全て討ち取らたように描かれた作品も多い。読者、視聴者を魅きこむには、ある程度の脚色、誇張は盛り込まれるのもいたしかたない。
信玄公の息子のうち、次男と七男は討ち取られていません。七男の安田信清は上杉家の領地まで逃れたとのこと。現在、両者の子孫がご健在のようです・・・

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[番外編] 信長の野望 嵐世記 番外編(3)

上杉謙信公を軸に巡ったお話の続き。



近代になって復元された高田城 (の三重櫓) である。春日山城跡から高田公園まで車で30分くらい。
謙信公にご縁のある土地を巡る間に立ち寄ったのだが、上杉家 ( 長尾家 )とは縁が薄い城なので、前話では省いた・・・


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謙信公には実子が無く、謙信公の甥にあたる上杉景勝公と北条氏康の七男である北条三郎を養子としていた。
北条三郎は景勝公の妹と結婚し、上杉景虎と名乗った。

上杉家と北条家は関東の支配権をめぐって激闘をくり返していた。
なぜ、敵対していたはずの北条家から養子を迎え入れたのだろうか!?!?

北条家は当初、武田家、今川家と同盟関係にあった。
同盟と言うと堅苦しい。簡単に言えば、北条氏康公、武田信玄公、今川義元公の間で交わした約束事である。



攻守の協力やお互いの領土を侵さない等は現在の「同盟」という考え方と同様。さらに、「婚姻」という要素が加わる。相手方大名家から養子を迎えることもある。
紙切れだけの約束は簡単に破棄されてしまう。身内の命が大事だからこそ、約を反えないように相手方大名との関係を保とうとする。

大名家の当主間で協定を結ぶという性質上、大名家の当主が変わると破棄や無効になる。
はたまた、突発的な出来事で同盟が崩れてしまうこともある。

桶狭間の戦いで今川義元公が討たれ、この世を去った。
義元公の後継者となった今川氏真公は北条家、武田家、今川家の同盟継続を希望していたようだ。しかし、武田家では信玄公の長男が亡くなり、今川家から嫁いだ義元公の娘が送り返された。これにより、今川家と武田家の婚姻は解消されてしまった。
同じ頃、信玄公の四男である武田勝頼公と織田信長公の姪の婚姻が成立し、武田家と織田家は同盟関係となった。
義元公が討たれた直後、徳川家康公は今川家から独立した。徳川家と織田家は同盟関係である。
依然、織田家と今川家は敵対関係である。



西暦1569年武田家が今川領駿河へ攻め入った。この時、今川氏真公と北条氏康公の娘が婚姻関係であり今川家は北条家を頼ることとなる。武田家は牽制のため北条家の領地にも攻め入った。

上杉家、北条家とも度重なる戦により疲弊していた。今まで北条家の味方であった武田家が敵に回った。そこで北条家は宿敵であった上杉家と手を組み武田家を撃退しようと考え同盟に至った・・・

・・・といった流れで、北条家から上杉家への養子縁組の運びとなった。

西暦1578年、謙信公は後継者を指名せずにこの世を去った。
上杉景勝公と上杉景虎、どちらが家督を相続するかで争いとなった。翌年、景勝公が争いを制し謙信公の後継者となった。

なお、その後も大名家間の同盟関係は刻々と変化した。武田家と北条家は再度同盟を結び、武田家と織田家の間の同盟は手切れとなり、武田家は織田徳川連合軍によって滅びてしまった・・・



上杉景勝公は豊臣秀吉公に厚遇された。西暦1598年、景勝公は120万石に加増にともない、会津 (現在の福島県西部 )に移った。それまで景勝公は春日山城を拠城としていた。景勝公が会津に移った後、織田信長公の側近であった堀秀政の息子や孫にあたる、堀秀治、堀忠俊が城主を勤めた。
春日山城は山城であった。戦国の世であれば山城の堅固な守りが活きてくる。しかし、平時においては不便である。
城主の堀秀治は直江津に近い場所に福島城を築いた。生活しやすい場所に城を移したかったのであろう。

西暦1607年、福島城が完成すると春日山城は廃城となった。しかし、福島城は海に近すぎる、治水など諸々の問題があったようだ。西暦1610年、福島城主となった松平忠輝公は内陸部へ城を移した。

高田城は西暦1614年頃に築かれ江戸幕府の終焉まで続いた。西暦1871年、廃藩置県により江戸時代からの城は無用の長物とみなされ、西暦1873年、廃城令により取り壊された。
その数年前、西暦1870年頃の火災にみまわれ本丸や三重櫓は焼け落ちたとされている・・・



高田城の跡地は現在高田公園となっていて、三重櫓は近代になって復元されたものである。
たしかに、再築されたモノと数百年間残ってきたモノでは重みが違うかも・・・



高田城跡のみどころは、ていねいに整備されている桜の木々。
東京の上野恩賜公園、青森の弘前公園と並び、
高田公園の桜は日本三大夜桜のひとつと称されている。

桜満開の頃に訪ねてみたいものだ・・・

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[番外編] 信長の野望 嵐世記 番外編(2)

戦国史に興味を持つと小説や画面の中だけでは物足りなくなる。



前話信長の野望 番外編(1)では山本勘助を軸に、武田信玄公側を巡ったことを綴った。



武田信玄公にとって永遠のライバルといえば上杉謙信公。
現在の山梨県を拠点とする武田勢と新潟を拠点とする上杉勢。



両者は長野県( 長野市付近 ) で支配権をめぐりたびたび衝突した。現在でも「川中島の戦い」として語り継がれている。



今回は上杉謙信公を軸に巡る・・・


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戦国時代、上杉謙信公は春日山城を居城としていた。春日山城跡は現在の新潟県上越市。



埼玉から春日山城跡に向かうには、関越自動車道から上信越自動車道へ。
長時間の連続運転はトラブルのもと。適度に休憩をとりながら・・・



上越高田で高速を降りると仮定すれば、直前の休憩は新井PA。
新井PAは混雑することが多い。ひとつ手前の妙高SAで休憩するのが無難かも・・・



戦国時代、この辺りは「越後」と呼ばれていた。上越市やその周辺は「南越後」。
当時の「国」という呼び方は現在の都道府県に相当する。南越後と北越後をひとつにまとめれば現在の新潟県に近い。

廃藩置県が行われた際、それまでの藩をもとに府や県が設置された。「江戸三百藩」や「三百諸侯」などと呼ぶように、江戸幕府の時代には藩の数が多かったため、全てで305の府県が設置された。
江戸時代、越後にはおおむね11の藩があった。廃藩置県が実施された直後、越後の辺りは柏崎県と新潟県など12の府県に分かれていた。上の図を参考にすれば、もともとの新潟県は北越後、柏崎県は南越後といったところ。
廃藩置県から数年の間に現在の47都道府県に近い形に再編成された。かつて越後と呼ばれた地域は柏崎県や新潟県などが合併し、現在の新潟県へと繋がっている。



南越後の春日山城跡近辺だけでなく、坂戸城近辺や栃尾城近辺も巡れば参考になるハズ・・・

戦国史に詳しくないヒトのためにお勉強。
武田信玄公や織田信長公は大名家に生まれ、家督を継いだ。
ではでは、
上杉謙信公は上杉家に生まれ、家督を継いで大名となった???
○×クイズ的に出題されると間違えてしまうかも・・・

まず、謙信公が誕生したころ、西暦1530年頃の甲信越地方や関東地方周辺は以下の通り。



例えば、下野国(しもつけのくに)は現在の栃木県、上野国 (こうずけのくに) は群馬県に相当する。
ちなみに、江戸、現在の東京が抜けているのではない。徳川家康公が江戸に幕府を開いたのは西暦1603年。
家康公が誕生したのは西暦1542年とされているので、およそ10~15年前の状況。
そもそも、日本の首都が東京となったのは西暦1869もしくは1871年である。それまで都といえば京都を指していた。

つづいて、各地を治めていた大名家は以下の通り。



大名家の苗字は現在でも都市や地域の名称として残っている。参考までに、常陸の佐竹家は関ヶ原の戦いの後、秋田へと転封となった。

さて、謙信公の話に戻ろう。
上の図では「上杉」や「長尾」が複数あるので紛らわしい。
それぞれの上杉家は別の大名家である。越後は上条上杉家(略して上条家)、上野は山内上杉家、武蔵は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が治めていた。

各上杉家は守護大名、つまり現在の県知事と例えるならば、長尾家は副知事と考えることができる。
そのうち、上野国の山内上杉家が関東管領( かんとうかんれい )に就いていた。関東管領とは関東地方の政務をとりしきる役職。簡単に考えるらば、関東地方の知事の総代表といったところ。
ただし、現代と異なるのは選挙制度など無かったため、役職を世襲するのが一般的であった。

上杉謙信公の父親は越後守護代の長尾為景公、上に3人の兄がいたとされている。当時の習慣として、長兄が武家を継ぎ、2番目以降の男子は仏門に入ることが多かった。
ほか、男子の後継者に恵まれない大名家の養子となる例もあるが、親からすれば、兄弟同士で闘うことを避けたいという知恵である。
ただし、長兄が戦死するなど家が断絶しそうになると還俗することもあった。室町幕府第15代将軍足利義昭公も兄の戦死にともない還俗した件などが有名。



長尾家の四男である謙信公も 6~7歳で林泉寺に預けられ学問に励んだ。謙信公は元服直前まで林泉寺で過ごしたとされている。
春日山城跡から林泉寺までの距離は約2km、歩いて20分位。



長尾為景公の隠居にともない、長兄の長尾晴景公が長尾家を継ぐこととなった。晴景公は温厚な性格で芸術面で優れていたとされている。が、病弱であったため武家の後継者としては不向きと評価されていた。長尾家に古くから仕えてきた家臣の中には、為景公と比べ統率力が低いことに不満を抱く者もいた。

某所で晴景公のものとされている書を目にした。筆から力強さを感じた。戦乱の世でなければ、晴景公は名君と呼ばれたことだろう。

やがて、為景公が亡くなったのを機に一部の家臣が反乱を起こした。この反乱以降2番目、3番目の兄 (景康、景房) の名前が出てこない。おそらく反乱の巻き添えで命を落としたのであろう・・・

謙信公は14歳で元服し長尾景虎と称した。長尾家の危機ということで、景虎は兄の晴景公に頼まれ栃尾城に向かい反乱を鎮圧。さらに翌年、黒滝城でも反乱が起きたが景虎の指揮のもと収束。
その手際の良さから、長尾家を支える重臣たちから「景虎こそ長尾家を継ぐのに相応しい」との声が高まってきた。越後の守護である上杉定実も同じように考えていたようで、上杉家の仲介により、景虎が晴景公の養子になる形で家督を相続することになった。
兄より弟の景虎を贔屓してくれた上杉定実はこの時点で70歳。その2年後に亡くなった。上杉家に養子を迎える計画も頓挫したため、越後守護である上杉家は絶えてしまった。
当時の将軍、足利義輝公は長尾家が守護を代行することを認め、実質的な守護大名となった。

さてさて、この時点での名前は元服した時と同じ長尾景虎である。上杉謙信の苗字は越後上杉家の「上杉」に由来していると誤解しやすい。
西暦1561年ごろ、山内上杉家の家督と関東管領職を相続することになり、上野国の上杉憲政公の養子となった。
この時点で苗字が長尾から上杉に変わり、「上杉政虎」と称す。翌年、当時の将軍であった足利義輝公にあやかり「上杉輝虎」に改名。

なぜ、越後守護であった上杉家の養子となり「上杉」を名乗ったのではなく、上野守護である山内上杉家の養子となったのだろう!?!?

謙信公が 越後の実質的な守護大名となった頃、相模を拠点としていた北条氏康公率いる北条家が勢力を拡大しつつあった。関東管領であった上野の上杉家は、武蔵の上杉家、上総の足利家と手を組み北条家に対抗してきた。上野の上杉家と武蔵の上杉家を「二本の杉」と例えることもある。



西暦1546年の河越夜戦にて武蔵の上杉家の当主、上杉朝定公が亡くなった。(戦死ではなく病死の説もある)。朝定公は
22歳で戦死したとされているが、実子が不在だったため武蔵の上杉家は絶えてしまった。

やがて、西暦1551年には平井城 ( 群馬県藤岡市 ) が陥落し、上杉憲政公は越後へ逃げた。その際、上杉憲政公の長男が亡くなった。
「逃げた」と記すのが正しいか否か微妙である。憲政公が越後に着いた時期について諸説ある。「落城後即座に逃亡」という説から「落城後も数年間、北条勢と抗い続けた末、越後ににたどり着いた」説まで様々・・・
憲政公は長尾景虎に関東管領職を譲った後、隠居して越後で暮らしたそうだ。

長尾景虎は憲政公に応じ北条勢の討伐に乗り出した。平井城を取り戻しただけでなく、沼田城 ( 群馬県沼田市 ) 辺りの北条勢を追い返した。

北条家が関東で勢力を伸ばすことに集中できたのは隣国今川家、武田家との同盟が後ろ盾となっていた。1560年、桶狭間の戦いにて今川義元公が討たれた。今川家が混乱をきたしただけでなく北条家やそれに加わっていた諸侯も動揺したようだ。

今川義元公が討たれた機に長尾景虎は大軍を率いて越後から南下。上野の上杉家が奪われた城を取り戻すにとどまらず、武蔵の上杉家が奪われた城や上総の足利家の御所を取り戻した。勢いを削がれた北条家は居城である小田原に立て籠もってしまった。相模の鎌倉まで上杉方に・・・破竹の勢いで・・・

この年の3月、山内上杉家を相続し、関東管領に就任。ここで姓が「上杉」に変わったの納得できるとして、この時点での名は「政虎(まさとら)」。
一般に知れ渡っている「謙信」という名は法号とのこと。戦国時代、信仰に熱心であった武将も多く、謙信公もそのひとりである。現代においては、法号や戒名というと故人の名と考えがちである。存命中に授かった法号を名乗ることもあるのだとか・・・

さてさて、春日山城跡や坂戸城跡を巡ったならば、雲洞庵も忘れないようにしたい。坂戸城跡から雲洞庵まで、車で20分くらい。



雲洞庵は謙信公だけでなく、後継者の上杉景勝公や直江兼続にも関わりが深い。細かく触れると長くなるので、簡単に記す。景勝公は謙信公の姉の息子、つまり謙信公の甥にあたる。



2009年1月から放映された大河ドラマ「天地人」でも描かれていたように、雲洞庵は景勝公や直江兼続が幼少期に教育を受けた場所。この頃、学校というものはなく、寺院で教育を受けるのが一般的であった。



自然に恵まれ静寂な環境。何かに集中するには適した場所だ・・・

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[番外編] 信長の野望 嵐世記

どこかのお城??



場所は山梨県北杜市 ( 山梨県営八ヶ岳牧場 )。西暦2007年に放映された大河ドラマ「風林火山」の撮影セット。時期は放映された年の梅雨明け頃。



「風林火山」の放映にともない、武田信玄公や山本勘助に縁のある神社なども観光客を呼び込もうと積極的であった。



信長の野望をきっかけに戦国時代に興味を持つヒトもいるだろう。画面の中で楽しんでいるだけでなく、実際に足を運べば地形や気候なども実感できより理解が深まる・・・

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大河ドラマ「風林火山」は井上靖の小説「風林火山」を基に作られた。山本勘助 ( 山本晴幸 ) の生涯が描かれ、第四次川中島の戦いで勘助はじめ武田家の重臣たちが討死する辺りまでが放映された。



主人公の山本勘助は軍略や築城術が得意であったとされている。実際のところ謎が多く、他の戦国時代に活躍した武将に比べ資料に不整合な点がある、近現代の浄瑠璃や小説において過大な脚色が加えられたという説や実在しなかったと唱える研究者もいる。
山本勘助という名前すら知らないヒトもいるだろう。案外私たちの身近なのだ。例えば、何か答えを求められる場面において、根拠もなく答えてしまう際、「ヤマカン」や「山勘」と言う。これは山本勘助の名前に由来しているとのこと・・・

さてさて、山本勘助が実在したかどうかは置いておこう。山本勘助は武田家の軍師とされている。軍師という語には複数の意味がある。戦の際、主君に軍事上の助言を行う参謀役と考えるのが妥当だろう。

前話、信長の野望 嵐世記 (7)にて陣形という語を使った。信長の野望から発したテーマである以上、陣形について綴っておきたい。

規模の大きな (参戦人数が多い) 野戦では規律正しく進むことが重要。
しばし、戦国モノのドラマや映画で戦の場面に敵に闇雲に突き進んでゆく場面が描かれる。たしかに、創作としては観ている者を魅きこむが、実際それは乱闘であり、制御不能。集団を率いて戦いに臨むという観点から好ましくない。
それは、現在のスポーツにおいての「チームプレイとは何ぞや??」と同じ。個人戦、つまり、各個で好き勝手に動くのであれば集団を組んだり、指揮者 ( 監督 ) を設ける意味がない・・・

日本では平安時代頃より八つの陣形が用いられてきた。それぞれ、鶴翼、魚鱗、雁行、偃月、衡軛、長蛇、鋒矢、方円といった呼び名となっている。
冒頭からの風林火山に戻ると、武田家は独自に改良し「武田八陣形」を編み出したとされている。

文字だけだと判り辛いかもしれないので、簡単な図を加える。
これは、信長の野望 嵐世記 の番外編ということで綴っている。ひとつの陣に参加できる部隊数が5つまでの制限に合わせ書いた図である。
嵐世記より前の烈風伝では、戦中に陣形を選択できたが嵐世記では陣を組むか解除の指定しかできない。

[ 鶴翼 ]
鶴翼

[ 魚鱗 ]
魚鱗

[ 雁行 ]
雁行

[ 偃月 ]
偃月

[ 衡軛 ]
衡軛

[ 長蛇 ]
長蛇

[ 鋒矢 ]
鋒矢

[ 方円 ]
方円

それぞれの陣形に対し、得意苦手がある。

得意苦手
鶴翼衡軛長蛇
魚鱗長蛇偃月
雁行方円鋒矢
偃月魚鱗鶴翼
衡軛鋒矢鶴翼
長蛇鶴翼魚鱗
鋒矢雁行方円
方円鋒矢雁行


攻撃を重視したければ「鶴翼」や「鋒矢」、逆に、総大将を守ることを最優先するならば「方円」が適している。
移動を重視したければ「雁行」や「長蛇」、そのかわり、攻守はほとんど期待できない。

敵方の陣形に応じて、自方の陣形を変えるのがベストである。多人数で合戦の最中、陣形変更が上手くできるか否かで戦の勝敗が変わってくる。この辺は軍師の腕の見せ所。
総大将や軍師の能力が高いだけでなく、参戦している人々が指揮に従わなければ失敗する。普段からの訓練や各武将たちと細かい打ち合わせも欠かせない・・・

武田信玄公は川中島の戦いなど、越後の上杉謙信公と合戦を繰り返した。川中島は長野県長野市、かつての戦場跡は公園となっている。
山本勘助らは第四次川中島の戦い ( 八幡原の戦い ) において「キツツキ戦法」を唱えた。しかし、上杉家側に見破られ命を落としたとされている。この際、武田家側でも多くの武将が討ち死にした。その中に武田信繁 ( 武田信玄公の実の弟 ) も含まれていた。
この辺のお話も諸説あるようですが、実際に足を運ぶことで何かを得られそうです・・・



となると、武田家のライバル、上杉謙信公が居城としていた春日山城について興味が沸いてくる。
ちなみに、大河ドラマ「風林火山」が放映された頃の松本城。



現在日本にあるお城は
戦国時代やそれ以前から残されてきた城
復元された城に分けられます。
西暦1873年に出された廃城令によって、戦国時代から残っていたお城の多くは取り壊されてしまいました。全国で12の城が残り、松本城や姫路城、犬山城、彦根城などは国宝に指定されています。

話しを戻しましょう。
春日山城は代々、上杉家 ( 長尾家 ) の居城でした。上杉謙信公の後を継いだのは上杉景勝公。関ヶ原の戦いで東軍が勝ったため、西軍の上杉景勝公は減封と米沢へ移転、つまり春日山を離れることとなった。やがて、1607年(慶長12年)春日山は廃城になりました・・・



ということで、春日山城跡へ・・・



本丸跡地に石碑がある程度。ここ数年で取って付けたような立派なお城は復元されていません。
春日山城跡地から直江津を一望できます。

観光客の増加を願い、近代の技術で復元されたお城も増えてきました。しかし、現代人の想像で創ってしまうと実際とはかけ離れてしまうのかもしれません。であるならば、違っている可能性のある情報を示すよりも、そのままの姿を残しておき、訪れた人々がそれぞれに感じ取っていただくのが良いのだろう・・・

書籍や画面の中だけで戦国時代を楽しんでいるだけでは感じ取れない情報は多々あります。もちろん、その地の名物料理目当てでも良いのですが、歴史的な名所に足を運ぶ価値はあります。
現在の食糧事情、医療技術や冷暖房に困らない生活環境と戦国時代を比べながら見て巡ると面白い。日ごろ忘れがちな、「現代に生きてて良かった」を実感できるハズ。

私たちの祖先たちが積み重ねてきたもの、末永く残りますように・・・

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テーマ : 城めぐり
ジャンル : 旅行

[未掲載分] 丸くて大きな瓜

農園を営む方からいただいた見慣れない果実。



参考までに、脇に置いたタバコの高さは 10cm。



その姿はカボチャのような、メロンのような・・・


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正体はトウガン ( 冬瓜 )。脇に置いたタバコの高さと比べ、大きさはおよそ 20cm 。
トウガンはもともとはインドや東南アジアで穫れる瓜だそうで、わが国へは数百年前に伝わり広まったのだとか。

中身が気になります。さっそく・・・



収穫してから日が浅いと皮が固いかも。「固い」よりも「硬い」と表現すべきだろうか・・・



よく見ると瓜の仲間で間違いないようです。実のほとんどは水分。



一般的に瓜といえば細長い形状。
「まだまだ成長なかばなのではないか?」と気になったので調べた。
トウガンでも、ヘチマやキュウリのような緑の種もあれば、表面が白っぽく見える種もある。
白っぽく見える種の中では、細長い形の「長とうがん」や丸い形の「大丸とうがん」があるとのこと。
ということで、今回いただいたのは「大丸とうがん」でしょう。つまり、これは成長途中の姿ではなく、熟した段階で丸い形状。
そういえば、丸い形状のスイカも瓜の仲間だ・・・



ところで、トウガンには「冬瓜」という字が当てられている。しかし、いただいたのは暑い盛り。収穫期は夏から秋とされています。
名前の由来には諸説あるようですが、冬まで長く保存できる瓜という説に同感。現代に比べ、冷蔵庫などがない時代には重宝されたことでしょう。
この辺から察するに、ほかの瓜にかぎらず、古来より人々が、「いかに農作物を長く保存するか」という課題に挑んできたのか奥が深そう。先人達が積み重ねてきた知恵、大切にしたいものです・・・

さてさて、トウガンは古くからの作物ということで食し方もいろいろあるようだ。
どのように召しあがろうか楽しみだ・・・

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テーマ : 家庭菜園
ジャンル : 趣味・実用

[未掲載分] ハゴロモルコウソウ

前話でアゲハが味わっていたのはハゴロモルコウソウ( 羽衣縷紅草 ) 。



前話の主役は黒いアゲハ。



そういえば、ハゴロモルコウソウを載せていなかったような・・・


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ハゴロモルコウソウはルコウソウ( 縷紅草 )と マルバルコウソウ( 丸葉縷紅草 )を掛け合わせた種なのだとか。



花の形は五角形。



大きさはおおよそ2cm 。



葉がモミジに似ている・・・と、この辺までは前話で触れた。



つる性植物に位置づけられており、茎が柔らかい。
ほかの樹などにツルを巻きながら育ってゆく。



アサガオのツルが四方八方に伸びてゆく姿と同様。



やがて、ツルからたくさんの花が咲く。



「ルコウソウと比べ花はオレンジ色」と説明されていることもある。
画像では、オレンジよりも真紅と表現するのがふさわしいかも。
この辺は個々の差や観るヒトにも依る・・・

さてさて、キアゲハが来た。

ハゴロモルコウソウ キアゲハ

お腹いっぱいになるまで、
ごゆっくり~。

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テーマ : 花・植物
ジャンル : 写真

[未掲載分] 同じコスモスでも

このブログでは、週末毎に、季節の花を載せようと試みていました。



当ブログ内、風景、光景のカテゴリーにおいて、2012年秋頃、コスモスをアップしました。
2012年10月 6日掲載分
2012年10月13日掲載分



その際、アップできなかった画像と筆者の雑感を・・・


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まずは以下2つの画像をご欄ください。





違いが確認できたでしょうか!?!?
上の画像は左側の花が手前に見えたり、下の画像では右側の花が手前に見えるかもしれません・・・

2つの画像とも撮る位置は同じ。
ピントを合わせる対象が異なります。

さらに、以下3つの画像をご欄ください。







これも同様、撮る位置は同じ。
対象が左、中、右へ変わるようにチャレンジした画像です。

筆者の狙いでは、3番目の画像は右側が対象になるように撮りたかったところ。でしたが、
対象が中、右の2枚はあまり違いが出せませんでした・・・

さてさて、
「何をしたかったの???」
と言われてしまいそうなので、説明。
修理に預けていたカメラが手もとに戻ってきて間もない頃、動作確認を目的に撮ってみたところです。

同じような状況でも
「どの花を主役にする?」
を変えると全く異なる結果となってしまうのがおわかりいただけるでしょうか。

以下2つも対象、つまり「主役」を変えて撮ろうとしたものです。





焦点の違いだけではなく、左側にあるツボミご注目あれ。
ツボミの一部が枠の外にはみ出しているのがお判りいただけるでしょう。

カメラが微妙に揺れたのか、はたまた、撮る瞬間に風が吹いたのかもしれません。
いずれにせよ、狙った通りにならなかったのは、撮ることに関して修行不足なのでしょう。

ここでふと想ったを少々・・・
もし、狙い通りに撮れるのであれば、静止画であれ、動画であれ、その分野を得意とする方々にとっては、「意図」を込めることが可能なのではないか。
言い換えれば、印象操作、情報操作もできてしまうのでは。
特に、それを生活の糧になされている方々にとっては容易いことなのかも。

画像を見る側はその「意図」に惑わされてしまうこともある。
例えば、人物のポスター画像ひとつとっても、同じ人物が実際よりも活発な印象を受けることがある。
実際のところ、大人の事情が絡み、脚色されるのはいつの世でもあること・・・

もちろん、多くのブロガーさんたちが日々アップしている画像は、脚色している感は薄い。
それらは、誰かに頼まれたのではなく、日ごろ見かけた素敵なモノ、心躍るモノゴトを己の欲するままに撮るからであろう・・・

古来から「百聞は一見にしかず」という諺もあるように、画像という情報をついつい信用してしまいがち。
捏造、偏向に踊らされないようにしたいものだ・・・

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テーマ : 花・植物
ジャンル : 写真

[検索語彙への応答] お手軽なスズメバチ対策

前回に続き、スズメバチ トラップ ( ハチ取り器、捕獲罠 )のお話。



6月に試してみたスズメバチトラップ。
設置して10日ほど経つと、数匹のスズメバチが浮いていました。
※ 巨大な巣がある場合は役所や駆除業者に相談するのが賢明です。



秋になると、毎年のようにスズメバチによる被害が報道されます。
スズメバチの個体数が増えてきている
と言われている一方、
従来の食糧が手に入らなくなり、人間の生活圏に入ってくるようになった
とも言われています。

スズメバチを積極的に捕獲・駆除するのではなく、
「人間の生活圏内 (庭木など) に入って来なければ良い」
という観点からスズメバチトラップを試してみました。


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トラップ ( ハチ取り器 ) を作る際、準備するものは、空のペットボトル、カッター、ペンチ、油性のペン。



ペットボトルの容量としては、1.5 ~ 2 リットル、丸い形状( 円筒状 )が推奨されているようです。
丸い容器のほうが、蜂が滑りやすいのだそうです。加工の際も、窓を作り易いことでしょう。

あくまでも筆者の私的な見解ですが、スズメバチにとって丸い形状、角ばった形状はあまり重要でないのかもしれません。蜂の足が滑るか否かに関して言えば 、
---トラップの中に入った蜂の様子を観ていたところ、しばら羽ばたいていました。やがて、羽を休めようとします。その際、通常は枝や棒状のものなど、なにかに留まろうとします。ところが、トラップの中では留まるところがなく誘引剤 ( 液体 )の中へ落ちてゆきました。---
ペットボトルの内側が滑るか否かよりも、蜂が休息する場が有るか無いか重要ということでしょう・・・



ペットボトルに窓 ( 蜂の入る口 ) を作ります。

窓を切り抜かない。
カタカナで書けば、「ロ」の字ではなく「コ」の字の形に切ります。
仮に切り抜いてしまっても、トラップにスズメバチは入りますが、逃げ出してしまうかもしれません。

窓の大きさは 3cm角が良いそうです。
今回、筆者が用いたペットボトルは横方向に凹凸があり、横幅がおおよそ4cm。



凹凸に逆らうようにカッターの刃を入れるのは手間がかかります。
よって縦 3cm 、横 4cm の窓を作りました。
たしかに、丸い形状で凹凸の無いペットボトルの方が窓を切り易いような・・・



ペンチ等を使って、窓に角度をつけます。



ペンチで軽く挟み、窓の角度を調整
丸い形状のペットボトルのほうが切り込みを入れ易い一方、窓の角度をつけるには角ばったペットボトルのほうが向いているかも・・・



窓を90度以上に開けてしまうと、せっかく入ったスズメバチが出ていってしまうかもしれません。
ある程度、逃げ難い角度に調整します。
( そもそも、開け放った形の窓を作るならば、窓を切り抜いてしまうほうが楽です。 )

トラップに誘引剤を注いで完成です。
「誘引剤」と言うと、お硬いイメージ。
今回は、専門的な薬品は使いません。



お手軽に用意できそうな、清酒、酢、砂糖の組み合わせで良いようです。
前話と重複しますが、筆者は上記のほかにミカンの果汁を加えました。

混ぜ合わせる分量は諸説あります。
地域、環境、スズメバチの種類などの条件によって結果は左右されます。
何通りかの調合を試して、良い結果をもたらす組み合わせを探すことになりそうです。

以下、筆者の私的な感想です。
複数のトラップを仕掛けてみたところ、ニオイの強い誘引トラップのほうが好調のようです・・・

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テーマ : こんなのどうでしょうか?
ジャンル : 趣味・実用

新ニャん歓迎会

「冬場になると毛がモジャモジャになる猫」の話を2012年11月 3日に掲載しました。



飼い主のおじさんのところへ寄ってみました。
日本のモノヅクリが盛んであった時代に精密機械の製造や設計に携わっていた方で、いろいろと興味深い話を聞かせていただきました。ほかにも、遠くを撮るための 100cm (1m) 近い手作りのレンズ、世界に数十台しかない電動タイプライターなどなど興味深い機材がたくさん残してありました。

ということで、今回はレトロな道具をご紹介・・・と思いましたが、勘の鋭い皆様はお察しの通り、あと何回筆を進められることやら・・・
今回は、続編要望の多かった猫ちゃんを中心とした話題。


### 過去記事をご覧いただいていない方へのご案内 ###
寒くなるとモジャモジャ
忘ニャん会
忘ニャん会 おまけ画像の続編です。




まずは、冬場になるとモジャモジャになる猫。



もうすぐ夏。
抜けかけた冬の毛皮は白髪のようにも見えます・・・



2012年12月26日掲載分の記事で、
我が子を見守っていた母猫。
( テレビの見過ぎを注意していたような )



あちこち目を光らせています。
いつまでたっても、子どもたちの様子が気になるのでしょう。



忘ニャン会に遅刻して入れなかったのんびり屋さん。



大きな口を明けて、ふあ~あっと。



オイラも負けずに大アクビ!



アニキの大アクビには勝てそうに無いぜぇ~。



さてさて、今回の主役はこの子。
他の兄弟たちは、お星様になってしまったとのこと。

とはいえ、ひとりぼっちで寂しいのではありません。
新入りということもあり、仲間たちに可愛いがられています。



普段は母親の側にべったり。



まだまだ甘えたい年頃だからニャあ・・・



食事となると、母親の下に隠れて移動。
右側に背中だけ見えるのは父親でしょうかアニキでしょうか。
すでに食べ始めています。



父親??の隣でお食事開始っ!
母親は、我が子がしっかり食べているか見守り中。
両脇から子猫をガードしているように見えてきます。



満腹になった後はお遊戯の時間。



親の背中に乗り、トレーニング中!?
うまく登れたかニャ。



ひとりで遊び回りたいお年頃!?



「あまり遠くに行かないでね」とでも言うように、



母親はそっと見守っています。



歩き回って疲れたニャあ。
お腹もいっぱい、眠くなってきた~。



おやすみ~

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テーマ :
ジャンル : ペット

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