リンクフリーを近日中にとりやめる予定です

すでにリンクを貼っていただいている方、ご一報頂きたくお願い申し上げます。


ごく少数ですが、リンクをお断りする場合があります



ブログ内 風景光景カテゴリー

続編記事などをご希望の方は こちらへどうぞ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[番外編] 信長の野望 嵐世記 番外編(2)

戦国史に興味を持つと小説や画面の中だけでは物足りなくなる。



前話信長の野望 番外編(1)では山本勘助を軸に、武田信玄公側を巡ったことを綴った。



武田信玄公にとって永遠のライバルといえば上杉謙信公。
現在の山梨県を拠点とする武田勢と新潟を拠点とする上杉勢。



両者は長野県( 長野市付近 ) で支配権をめぐりたびたび衝突した。現在でも「川中島の戦い」として語り継がれている。



今回は上杉謙信公を軸に巡る・・・


お知らせ
活動休止にともない、この記事を事前に予約投稿してあります。
トップ記事の固定を目的としています


戦国時代、上杉謙信公は春日山城を居城としていた。春日山城跡は現在の新潟県上越市。



埼玉から春日山城跡に向かうには、関越自動車道から上信越自動車道へ。
長時間の連続運転はトラブルのもと。適度に休憩をとりながら・・・



上越高田で高速を降りると仮定すれば、直前の休憩は新井PA。
新井PAは混雑することが多い。ひとつ手前の妙高SAで休憩するのが無難かも・・・



戦国時代、この辺りは「越後」と呼ばれていた。上越市やその周辺は「南越後」。
当時の「国」という呼び方は現在の都道府県に相当する。南越後と北越後をひとつにまとめれば現在の新潟県に近い。

廃藩置県が行われた際、それまでの藩をもとに府や県が設置された。「江戸三百藩」や「三百諸侯」などと呼ぶように、江戸幕府の時代には藩の数が多かったため、全てで305の府県が設置された。
江戸時代、越後にはおおむね11の藩があった。廃藩置県が実施された直後、越後の辺りは柏崎県と新潟県など12の府県に分かれていた。上の図を参考にすれば、もともとの新潟県は北越後、柏崎県は南越後といったところ。
廃藩置県から数年の間に現在の47都道府県に近い形に再編成された。かつて越後と呼ばれた地域は柏崎県や新潟県などが合併し、現在の新潟県へと繋がっている。



南越後の春日山城跡近辺だけでなく、坂戸城近辺や栃尾城近辺も巡れば参考になるハズ・・・

戦国史に詳しくないヒトのためにお勉強。
武田信玄公や織田信長公は大名家に生まれ、家督を継いだ。
ではでは、
上杉謙信公は上杉家に生まれ、家督を継いで大名となった???
○×クイズ的に出題されると間違えてしまうかも・・・

まず、謙信公が誕生したころ、西暦1530年頃の甲信越地方や関東地方周辺は以下の通り。



例えば、下野国(しもつけのくに)は現在の栃木県、上野国 (こうずけのくに) は群馬県に相当する。
ちなみに、江戸、現在の東京が抜けているのではない。徳川家康公が江戸に幕府を開いたのは西暦1603年。
家康公が誕生したのは西暦1542年とされているので、およそ10~15年前の状況。
そもそも、日本の首都が東京となったのは西暦1869もしくは1871年である。それまで都といえば京都を指していた。

つづいて、各地を治めていた大名家は以下の通り。



大名家の苗字は現在でも都市や地域の名称として残っている。参考までに、常陸の佐竹家は関ヶ原の戦いの後、秋田へと転封となった。

さて、謙信公の話に戻ろう。
上の図では「上杉」や「長尾」が複数あるので紛らわしい。
それぞれの上杉家は別の大名家である。越後は上条上杉家(略して上条家)、上野は山内上杉家、武蔵は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が治めていた。

各上杉家は守護大名、つまり現在の県知事と例えるならば、長尾家は副知事と考えることができる。
そのうち、上野国の山内上杉家が関東管領( かんとうかんれい )に就いていた。関東管領とは関東地方の政務をとりしきる役職。簡単に考えるらば、関東地方の知事の総代表といったところ。
ただし、現代と異なるのは選挙制度など無かったため、役職を世襲するのが一般的であった。

上杉謙信公の父親は越後守護代の長尾為景公、上に3人の兄がいたとされている。当時の習慣として、長兄が武家を継ぎ、2番目以降の男子は仏門に入ることが多かった。
ほか、男子の後継者に恵まれない大名家の養子となる例もあるが、親からすれば、兄弟同士で闘うことを避けたいという知恵である。
ただし、長兄が戦死するなど家が断絶しそうになると還俗することもあった。室町幕府第15代将軍足利義昭公も兄の戦死にともない還俗した件などが有名。



長尾家の四男である謙信公も 6~7歳で林泉寺に預けられ学問に励んだ。謙信公は元服直前まで林泉寺で過ごしたとされている。
春日山城跡から林泉寺までの距離は約2km、歩いて20分位。



長尾為景公の隠居にともない、長兄の長尾晴景公が長尾家を継ぐこととなった。晴景公は温厚な性格で芸術面で優れていたとされている。が、病弱であったため武家の後継者としては不向きと評価されていた。長尾家に古くから仕えてきた家臣の中には、為景公と比べ統率力が低いことに不満を抱く者もいた。

某所で晴景公のものとされている書を目にした。筆から力強さを感じた。戦乱の世でなければ、晴景公は名君と呼ばれたことだろう。

やがて、為景公が亡くなったのを機に一部の家臣が反乱を起こした。この反乱以降2番目、3番目の兄 (景康、景房) の名前が出てこない。おそらく反乱の巻き添えで命を落としたのであろう・・・

謙信公は14歳で元服し長尾景虎と称した。長尾家の危機ということで、景虎は兄の晴景公に頼まれ栃尾城に向かい反乱を鎮圧。さらに翌年、黒滝城でも反乱が起きたが景虎の指揮のもと収束。
その手際の良さから、長尾家を支える重臣たちから「景虎こそ長尾家を継ぐのに相応しい」との声が高まってきた。越後の守護である上杉定実も同じように考えていたようで、上杉家の仲介により、景虎が晴景公の養子になる形で家督を相続することになった。
兄より弟の景虎を贔屓してくれた上杉定実はこの時点で70歳。その2年後に亡くなった。上杉家に養子を迎える計画も頓挫したため、越後守護である上杉家は絶えてしまった。
当時の将軍、足利義輝公は長尾家が守護を代行することを認め、実質的な守護大名となった。

さてさて、この時点での名前は元服した時と同じ長尾景虎である。上杉謙信の苗字は越後上杉家の「上杉」に由来していると誤解しやすい。
西暦1561年ごろ、山内上杉家の家督と関東管領職を相続することになり、上野国の上杉憲政公の養子となった。
この時点で苗字が長尾から上杉に変わり、「上杉政虎」と称す。翌年、当時の将軍であった足利義輝公にあやかり「上杉輝虎」に改名。

なぜ、越後守護であった上杉家の養子となり「上杉」を名乗ったのではなく、上野守護である山内上杉家の養子となったのだろう!?!?

謙信公が 越後の実質的な守護大名となった頃、相模を拠点としていた北条氏康公率いる北条家が勢力を拡大しつつあった。関東管領であった上野の上杉家は、武蔵の上杉家、上総の足利家と手を組み北条家に対抗してきた。上野の上杉家と武蔵の上杉家を「二本の杉」と例えることもある。



西暦1546年の河越夜戦にて武蔵の上杉家の当主、上杉朝定公が亡くなった。(戦死ではなく病死の説もある)。朝定公は
22歳で戦死したとされているが、実子が不在だったため武蔵の上杉家は絶えてしまった。

やがて、西暦1551年には平井城 ( 群馬県藤岡市 ) が陥落し、上杉憲政公は越後へ逃げた。その際、上杉憲政公の長男が亡くなった。
「逃げた」と記すのが正しいか否か微妙である。憲政公が越後に着いた時期について諸説ある。「落城後即座に逃亡」という説から「落城後も数年間、北条勢と抗い続けた末、越後ににたどり着いた」説まで様々・・・
憲政公は長尾景虎に関東管領職を譲った後、隠居して越後で暮らしたそうだ。

長尾景虎は憲政公に応じ北条勢の討伐に乗り出した。平井城を取り戻しただけでなく、沼田城 ( 群馬県沼田市 ) 辺りの北条勢を追い返した。

北条家が関東で勢力を伸ばすことに集中できたのは隣国今川家、武田家との同盟が後ろ盾となっていた。1560年、桶狭間の戦いにて今川義元公が討たれた。今川家が混乱をきたしただけでなく北条家やそれに加わっていた諸侯も動揺したようだ。

今川義元公が討たれた機に長尾景虎は大軍を率いて越後から南下。上野の上杉家が奪われた城を取り戻すにとどまらず、武蔵の上杉家が奪われた城や上総の足利家の御所を取り戻した。勢いを削がれた北条家は居城である小田原に立て籠もってしまった。相模の鎌倉まで上杉方に・・・破竹の勢いで・・・

この年の3月、山内上杉家を相続し、関東管領に就任。ここで姓が「上杉」に変わったの納得できるとして、この時点での名は「政虎(まさとら)」。
一般に知れ渡っている「謙信」という名は法号とのこと。戦国時代、信仰に熱心であった武将も多く、謙信公もそのひとりである。現代においては、法号や戒名というと故人の名と考えがちである。存命中に授かった法号を名乗ることもあるのだとか・・・

さてさて、春日山城跡や坂戸城跡を巡ったならば、雲洞庵も忘れないようにしたい。坂戸城跡から雲洞庵まで、車で20分くらい。



雲洞庵は謙信公だけでなく、後継者の上杉景勝公や直江兼続にも関わりが深い。細かく触れると長くなるので、簡単に記す。景勝公は謙信公の姉の息子、つまり謙信公の甥にあたる。



2009年1月から放映された大河ドラマ「天地人」でも描かれていたように、雲洞庵は景勝公や直江兼続が幼少期に教育を受けた場所。この頃、学校というものはなく、寺院で教育を受けるのが一般的であった。



自然に恵まれ静寂な環境。何かに集中するには適した場所だ・・・

本日も最後までご覧いただきありがとうございます。

「つまらなかった」「判り辛った」という方もご遠慮なくコメント欄へどうぞ

テーマ : 城めぐり
ジャンル : 旅行

コメントの投稿

非公開コメント

検索サイトからお越しの方へ
検索サイトからお越しの方は、ブラウザのアドレス欄vitalaboloveおよび、fc2.comが含まれているかご確認ください。
含まれていない場合、偽サイトを閲覧なされている可能性があります。

偽サイトは、当ブログの文字部分や画像部分が有害サイトへのバナーと置き換わっているようです。
プロフィール

Author:Vitalabolove
ご訪問ありがとうございます。
店長を任されておりますVitalaboloveです。

コメントはお気軽に。
今のところリンクフリーですが、あと数日でとりやめます。

画像データ、文言の引用は事前連絡くださるようお願い申し上げます。事前連絡の際は、左下、メールフォームを経由をご利用ください。

最新記事
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
ランキング
いつも応援いただきありがとうございました。ただいま休養中につきランキングへ参加していません・・・

フリーエリア
内緒話などはおきてがみをご利用ください。
月別アーカイブ
メールフォーム
掲載された記事について、ご不明な点はここからお問い合わせください

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント
最新トラックバック
スパムと思われるトラックバックは削除しました
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。